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国司元相の生年について

天正19年(1591年)に99歳で亡くなったと伝わる〔1〕国司家七代国司元相ですが、書状にその名前が登場するのは非常に遅く、確認される中で最も古いものは天文7年(1538年)8月7日付けの毛利隆元一字書出〔2〕となります。
一字書出は一般に元服のときに行われるもので、天正19年の時点で99歳という話を信じるのであれば、生年は毛利興元と同じ明応元年(1492年)となり、元相は46歳の時にこの一時書出状を毛利隆元より受け取ったこととなります。
そもそもこの一字書出状が発行された天文7年8月7日には、毛利隆元は山口へ人質として出ており〔3〕、山口へ同行せず、青山土取場の戦いに参加していたとされる元相が一字書出状を受け取っていること自体がおかしく思われるのですが、それを差し置いても、46歳での一時書出状はあまりにも遅いように感じられます。
もしこの時、元相の名前が元相と改められたのであれば、それ以前の名前や活動が記された資料がある筈であると、山口県立文書館にある『元相譜』『国司系図』『香川氏系譜毛利家家臣伝』、国司家の伝記本である『国司信濃親相伝』、『高田郡史』〔4〕『萩藩諸家系譜図』を探ってみましたが、管見の限りでは記述は見つかりませんでした。
また天文7年以前の活動については「天文4年(1535年)正月18日に粟屋右京亮元親と共に元就に従い五龍城」〔5〕「天文3年(1534年)の般若谷の合戦に参加」〔6〕の二つの記述があるのみで、また前者に関しては他の資料では天文4年の出来事ではなく天文3年の出来事となっており〔7〕、少し疑わしい記述だと思われます。
もし元相の生年が今に伝わる天正19年であれば、ここまで記述がないのは何故なのでしょうか。
さて、ここで注目したいのが、『贈村山家返章』〔8〕に収められている下記の文です。
"(前文略)弥御祈念頼申候、歳はきのとの亥、内儀も同年にて候、恐々謹言"
ここで触れられている内儀が最初の妻である渡辺勝女か桂広澄女かは分かりませんが、渡辺勝女は『渡辺系図』〔9〕によると渡辺通の姉として扱われているため、桂広澄女を指している可能性が高いのではと思います。
この書状の中で元相は自らを乙亥生まれであると記述しており、生年として伝わる明応元年は壬子となるため、乙亥には当てはまりません。その前後で乙亥となると、享徳4年(1455年)、永正12年(1515年)、天正3年(1575年)が当はまり、元相の主な活動時期から考えると永正12年のことではないかと思われます。
また、元相の生年に関しての記述は贈村山家返章だけではなく、安芸高田市歴史民俗博物館様の調査された日高山神社の棟札にも
"大願主国司飛騨守元相乙亥歳"
との一文があり、ここでも元相の生年は壬子ではなく、乙亥であると記載されています。
これ等の事から、今でこそ多くの系図で明応元年(1492年)に生まれたと伝わる国司元相ですが、本来の生年は明応元年ではなく、永正12年(1515年)なのではないでしょうか。
  • 〔1〕『萩藩諸家系譜』マツノ書店
  • 〔2〕『萩藩閥閲録(巻の15 17)』マツノ書店
  • 〔3〕『毛利隆元公山口逗留日記』マツノ書店
  • 〔4〕『高田郡史 上巻』(第二章 高田郡下向の武士たち 第四節 国司氏)
  • 〔5〕『元相譜』山口県立文書館
  • 〔6〕『元相譜』
  •     『萩藩閥閲録(巻の15 18)』(ただし萩藩閥閲録の中では天文年中の出来事となっており、感状にも日付のみで年の記述はない)
  • 〔7〕『毛利元就のすべて』元就年表
  •     『毛利元就卿伝』第三章 卿の大内氏帰属 第一編 毛利氏の勃興
  • 〔8〕『広島県史 巻5』贈村山家返章 47 
  • 〔9〕『渡辺系図』 山口県立文書館
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