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すけろく!

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史跡巡り(山口市徳地伊賀地)

元は高田郡国司庄(現在の広島県安芸高田市国司)に領地を持っていた国司氏ですが、毛利氏の関ヶ原による防長移封に伴い、八代元武〔1〕の時に周防国佐波郡徳地邑の枝郷伊賀地(現山口県山口市徳地伊賀地)へ移領することとなりました。
その後、寛永二年の検地(秀元改め)により十代就正の代に長門国厚狭郡万倉村へ替地することになりますが、九代元蔵はこの地で没し、同地にある西方寺に葬られることとなります。
西方寺は明治の頃火災によって焼失し〔2〕、今は同地に墓地だけが残されています。




周りは田圃に囲まれ、非常に静かな土地でした。少し整備され動かされた跡がありますが、「国司元武・元蔵之塔」という分かりやすい看板の後ろに二基のお墓が並んでいます。



上の写真は一枚目の写真左側の墓碑の文字を拡大したものです。右側の墓碑からは何の文字も確認出来ませんでしたが、こちらの中央には「牛庵以吽大居士 神儀」との文字が刻まれており、左側が元蔵のものであることが分かります。
元武・元蔵之塔との看板が立つ事から、もう一つが元武の墓碑だと思われるのですが、江戸時代(18世紀半ば)に成立した防長寺社由来〔3〕の西方寺の項目を確認すると、「境内には五輪塔が二基あり、過去帳によると元蔵とその妻の墓碑」であるとの記載を発見しました。
ただ、それから後の天保12年にまとめられた防長風土注進案〔4〕には「慶長年中の五輪塔が三基。国司隼人佑、同内室、同備後守元武とあり、この場所を領地とした由」であると書かれ、この西方寺跡の五輪塔についての記述だけを並べると、
国司隼人佑元蔵、同内儀(防長寺社由来)→国司隼人佑元蔵、同内室、同備後守元武(防長風土注進案)→国司隼人佑元蔵、同備後守元武(徳地町史、現在の看板)
となり、この五輪塔のが誰のものであるかの記述が変化し、しっかりと戒名が刻まれている元蔵の墓碑以外、同内室のものなのかその父である国司備後守元武のものなのかいまいちはっきりとしないように思いました。

私自身の調査不足で、これ以上は何とも言えませんが、この事についてまた機会があれば色々調べてみたいと感じます。



〔1〕「山口県史史料編 近世1上」
「萩藩閥閲録」などでは元武から元蔵への家督相続を天正十五年と記載しているものもありますが、「毛利三代実録」の慶長八年五月廿一日の項目に『国司備後守元武秩禄ヲ其弟隼人佑元蔵二譲リ、其家ヲ継カシメント請フ』との一文があり、その頃の書状の発給人を見ていると元武から元蔵への相続のタイミングはこの時である可能性が高いのではと思います。(※未考)
〔2〕「国司信濃親相伝(マツノ書店)」
〔3〕「防長寺社由来(山口県立文書館)」
〔4〕「防長風土注進案(山口県立文書館)」
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史跡巡り(宇部市奥万倉)

新山口駅からJR山陽本線下関行きに乗り厚東駅下車。そこから更に車で30分くらいのところに国司氏の菩提寺である天龍寺があります。



本寺は山口瑠璃光寺、開基は桃岳。
貞和の時代、厚東氏の駿河守武村が一宇を建立し菩提所とし、名を正楽寺と号しました。
しかし厚東氏が滅びると寺名と観音堂のみが残り、明応の頃防臭仁保村瑠璃光寺の桃岳和尚を招請して寺院を再興。寺号を天竜寺と改め山号は蓬莱山を用いたそうです。
元亀の頃、志多野丸(信田丸)の城主杉七郎平重良が防州山口宮野村より定林寺という寺をここへ写し、一宇を新しく建立し杉氏の菩提所としました。この時の開山は無着禅師だそうですが、亡くなった日や墓所などは伝わっていないとのことです。
杉氏断絶後、再び廃寺となりましたが、寛永二年(1625年)に国司就正が万倉領主となり、防州徳地二宮村より若王山宗吽寺という寺を移転し、一宇を建立して前領徳地伊賀地の西法寺より父祖の位牌を移し安置。此処を国司家の菩提所と定めました。
宗吽寺の寺名は就正の父、国司元蔵の法名「牛庵以吽居士」にちなんでいます。



宗吽寺の寺名が天龍寺に改められたのは十五代正久、十六代就直両代の頃のことで、その頃の住職、兀堂によって為されたものです。



天龍寺内にある国司家墓所には、十四基の墓碑があります。
これ等の墓碑は元文四年(1739年)六月二十二日に営まれた七代元相の百五十回忌より遠回忌施行の先例が開かれ、墓碑の建立がはじめられました。
(この際、十五代正久が七代元相の卒年の誤りを指摘しています)
現在天龍寺国司家墓所には八代元武、九代元蔵、十一代就長を除く七代元相から二十二代純行までの墓碑が建立されています。


(天龍寺にあった国司家家紋。ちょっと薄暗くて見辛い写真となりました)

参考:
防長寺社由来
船木郷土史話
国司信濃親相伝
くすのき文化(『国司家墓所及び墓碑』調査について)

史跡巡り(安芸高田市)

9月28日、安芸高田市に行ってきました。
広島駅から三次ライナーに乗り電車に揺られること55分。何かイベントがあったようで、賑やかな車内でした。

(国司右京亮墓所)
安芸高田市国司にある国司右京亮墓所は、少し分かり辛い場所にあります。
向原から車で安芸高田市に向かう途中、左手に見える國司衛生という会社を目印に、左へ曲がればすぐ国司右京亮墓所に辿り着きます。



藝藩通志によると、元々は休照庵と呼ばれる国司家の菩提寺でした。
しかし、有相譜には
"(前文略)法名久正藝州国司村瑞泉寺に葬る 瑞泉寺を改めて久正庵と号す"
という一文もあり、もしかすると、当時はこちらの名前で呼ばれていたのかもしれません。

近くには、吉田町教育委員会による看板が立ててあり、国司家の由来を説明しています。



(看板アップ。結構最近に建てられたものでした)

こちらのお墓は七代元相までのもので、それ以降は、山口県山口市にある伊賀地村、山口県宇部市奥万倉の天竜寺に葬られています。
七代元相は150回忌施行にあたり、十五代正久によって天竜寺に墓碑が建立されました。


(国司右京亮屋敷跡と思いたいところ)


(国司家墓所は写真の白い車の左あたり)
お墓から少し歩くと、国司右京の屋敷があったと伝えられる場所があります。
藝藩通志の国司村の地図にそれらしき場所が載っていますが、1705年の「高田郡村々覚書」には「今は畠となっており、詳しいことは分からない」と書かれており、なんとなくこの辺りだろうかと想像するしかないようです。
写真には写っていませんが、これよりもう少し左側に赤川筑前の屋敷があったという話もあります。



(斜め後ろから)

参考:
藝藩通志
高田郡史 資料編
有相譜