新山口駅からJR山陽本線下関行きに乗り厚東駅下車。そこから更に車で30分くらいのところに国司氏の菩提寺である天龍寺があります。
本寺は山口瑠璃光寺、開基は桃岳。
貞和の時代、厚東氏の駿河守武村が一宇を建立し菩提所とし、名を正楽寺と号しました。
しかし厚東氏が滅びると寺名と観音堂のみが残り、明応の頃防臭仁保村瑠璃光寺の桃岳和尚を招請して寺院を再興。寺号を天竜寺と改め山号は蓬莱山を用いたそうです。
元亀の頃、志多野丸(信田丸)の城主杉七郎平重良が防州山口宮野村より定林寺という寺をここへ写し、一宇を新しく建立し杉氏の菩提所としました。この時の開山は無着禅師だそうですが、亡くなった日や墓所などは伝わっていないとのことです。
杉氏断絶後、再び廃寺となりましたが、寛永二年(1625年)に国司就正が万倉領主となり、防州徳地二宮村より若王山宗吽寺という寺を移転し、一宇を建立して前領徳地伊賀地の西法寺より父祖の位牌を移し安置。此処を国司家の菩提所と定めました。
宗吽寺の寺名は就正の父、国司元蔵の法名「牛庵以吽居士」にちなんでいます。
宗吽寺の寺名が天龍寺に改められたのは十五代正久、十六代就直両代の頃のことで、その頃の住職、兀堂によって為されたものです。
天龍寺内にある国司家墓所には、十四基の墓碑があります。
これ等の墓碑は元文四年(1739年)六月二十二日に営まれた七代元相の百五十回忌より遠回忌施行の先例が開かれ、墓碑の建立がはじめられました。
(この際、十五代正久が七代元相の卒年の誤りを指摘しています)
現在天龍寺国司家墓所には八代元武、九代元蔵、十一代就長を除く七代元相から二十二代純行までの墓碑が建立されています。
(天龍寺にあった国司家家紋。ちょっと薄暗くて見辛い写真となりました)
参考:
防長寺社由来
船木郷土史話
国司信濃親相伝
くすのき文化(『国司家墓所及び墓碑』調査について)