史跡巡り(山口市徳地伊賀地) Category:旅日記 Date:2015年03月26日 元は高田郡国司庄(現在の広島県安芸高田市国司)に領地を持っていた国司氏ですが、毛利氏の関ヶ原による防長移封に伴い、八代元武〔1〕の時に周防国佐波郡徳地邑の枝郷伊賀地(現山口県山口市徳地伊賀地)へ移領することとなりました。その後、寛永二年の検地(秀元改め)により十代就正の代に長門国厚狭郡万倉村へ替地することになりますが、九代元蔵はこの地で没し、同地にある西方寺に葬られることとなります。西方寺は明治の頃火災によって焼失し〔2〕、今は同地に墓地だけが残されています。 周りは田圃に囲まれ、非常に静かな土地でした。少し整備され動かされた跡がありますが、「国司元武・元蔵之塔」という分かりやすい看板の後ろに二基のお墓が並んでいます。 上の写真は一枚目の写真左側の墓碑の文字を拡大したものです。右側の墓碑からは何の文字も確認出来ませんでしたが、こちらの中央には「牛庵以吽大居士 神儀」との文字が刻まれており、左側が元蔵のものであることが分かります。元武・元蔵之塔との看板が立つ事から、もう一つが元武の墓碑だと思われるのですが、江戸時代(18世紀半ば)に成立した防長寺社由来〔3〕の西方寺の項目を確認すると、「境内には五輪塔が二基あり、過去帳によると元蔵とその妻の墓碑」であるとの記載を発見しました。ただ、それから後の天保12年にまとめられた防長風土注進案〔4〕には「慶長年中の五輪塔が三基。国司隼人佑、同内室、同備後守元武とあり、この場所を領地とした由」であると書かれ、この西方寺跡の五輪塔についての記述だけを並べると、国司隼人佑元蔵、同内儀(防長寺社由来)→国司隼人佑元蔵、同内室、同備後守元武(防長風土注進案)→国司隼人佑元蔵、同備後守元武(徳地町史、現在の看板)となり、この五輪塔のが誰のものであるかの記述が変化し、しっかりと戒名が刻まれている元蔵の墓碑以外、同内室のものなのかその父である国司備後守元武のものなのかいまいちはっきりとしないように思いました。私自身の調査不足で、これ以上は何とも言えませんが、この事についてまた機会があれば色々調べてみたいと感じます。〔1〕「山口県史史料編 近世1上」「萩藩閥閲録」などでは元武から元蔵への家督相続を天正十五年と記載しているものもありますが、「毛利三代実録」の慶長八年五月廿一日の項目に『国司備後守元武秩禄ヲ其弟隼人佑元蔵二譲リ、其家ヲ継カシメント請フ』との一文があり、その頃の書状の発給人を見ていると元武から元蔵への相続のタイミングはこの時である可能性が高いのではと思います。(※未考)〔2〕「国司信濃親相伝(マツノ書店)」〔3〕「防長寺社由来(山口県立文書館)」〔4〕「防長風土注進案(山口県立文書館)」 PR