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国司家墓所地図

「国司家墓所 場所」でこのブログに辿り着く方がいらっしゃるようなので、行ったことのある墓所三か所をグーグルマップに纏めました。
細かい場所等違うかもしれませんが参考程度にどうぞ。他の場所はまた立ち寄ったら追加します。

詳しくは続きからどうぞ。
左上のメモの下のアイコンをクリックするとリストが表示されると思います。
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毛利輝元の元武観察日記~元武とお酒~

毛利隆元の傅役を務めたと言われる国司元相の子、国司元武もまた毛利輝元が三歳の頃から傅役を務めました〔1〕。毛利輝元が幼少の頃、その母である尾崎局から旦那である隆元の宛てた手紙〔2〕の中で「すけ六(国司元武)にも幸鶴(毛利輝元)が機嫌を損ねようとも、しっかり意見するように言ってください(意訳)」と書かれているように、あまり厳しい傅役ではなかったようですが、輝元が晩年になっても仲は良かったようで、時折元武の息子の元蔵〔3〕に当てた書状の中で元武の様子をあれこれと報告しています。(以下、どちらも超意訳)

(山口県史史料編近世6 国司家文書35)
「また元武が来たよ。
歳を取ってるけどその年よりは若いよね。健康なことは前と同じです。
お酒を飲むことも変わらないよ。驚くことにお椀でお酒を飲むんだよ。
来た時、主にお酒を飲むんだけど、手を摩ってくれて嬉しかったよ」
(山口県史史料編近世6 国司家文書37)
「元武は寒そうだけどお酒の量は少しも減っていないよ。
最近また何度かやって来ては、さすりましょうかと申して来るんだけど、
まるで年寄りと幼子のようなおかしさだよね」


この他にも元武の病状の事などを元蔵に書き送っていますが、どうやら元武はお酒が好きだったようで、元武とお酒に関して輝元が書いたのが上二つの書状です。『元武譜』〔4〕にも
元武は輝元公の幼年の頃より傅役を務め数十年の親睦があり、元武年老いても度々お屋敷に召し出され、元武常に酒を好むことから、輝元公美酒を貯え置き、元武が出仕するごとに酒を賜る
とあり、この二人はしょっちゅう顔を合わせては、二人でお酒を楽しんでいたようです。
なんだか可愛いですね!輝元さんと元武さん!他にも元武の様子を綴ったものはありますがそれはまたの機会に。


〔1〕『萩藩閥閲録(国司隼人 巻15の1)』
〔2〕『毛利家文書1320』
〔3〕本来は国司元相の息子、元武の次男にあたる元蔵ですが、元武の嫡男が早世し跡継ぎがいないため元武の養子となりました。
〔4〕『元武譜』山口県立文書館

国司元相の生年について

天正19年(1591年)に99歳で亡くなったと伝わる〔1〕国司家七代国司元相ですが、書状にその名前が登場するのは非常に遅く、確認される中で最も古いものは天文7年(1538年)8月7日付けの毛利隆元一字書出〔2〕となります。
一字書出は一般に元服のときに行われるもので、天正19年の時点で99歳という話を信じるのであれば、生年は毛利興元と同じ明応元年(1492年)となり、元相は46歳の時にこの一時書出状を毛利隆元より受け取ったこととなります。
そもそもこの一字書出状が発行された天文7年8月7日には、毛利隆元は山口へ人質として出ており〔3〕、山口へ同行せず、青山土取場の戦いに参加していたとされる元相が一字書出状を受け取っていること自体がおかしく思われるのですが、それを差し置いても、46歳での一時書出状はあまりにも遅いように感じられます。
もしこの時、元相の名前が元相と改められたのであれば、それ以前の名前や活動が記された資料がある筈であると、山口県立文書館にある『元相譜』『国司系図』『香川氏系譜毛利家家臣伝』、国司家の伝記本である『国司信濃親相伝』、『高田郡史』〔4〕『萩藩諸家系譜図』を探ってみましたが、管見の限りでは記述は見つかりませんでした。
また天文7年以前の活動については「天文4年(1535年)正月18日に粟屋右京亮元親と共に元就に従い五龍城」〔5〕「天文3年(1534年)の般若谷の合戦に参加」〔6〕の二つの記述があるのみで、また前者に関しては他の資料では天文4年の出来事ではなく天文3年の出来事となっており〔7〕、少し疑わしい記述だと思われます。
もし元相の生年が今に伝わる天正19年であれば、ここまで記述がないのは何故なのでしょうか。
さて、ここで注目したいのが、『贈村山家返章』〔8〕に収められている下記の文です。
"(前文略)弥御祈念頼申候、歳はきのとの亥、内儀も同年にて候、恐々謹言"
ここで触れられている内儀が最初の妻である渡辺勝女か桂広澄女かは分かりませんが、渡辺勝女は『渡辺系図』〔9〕によると渡辺通の姉として扱われているため、桂広澄女を指している可能性が高いのではと思います。
この書状の中で元相は自らを乙亥生まれであると記述しており、生年として伝わる明応元年は壬子となるため、乙亥には当てはまりません。その前後で乙亥となると、享徳4年(1455年)、永正12年(1515年)、天正3年(1575年)が当はまり、元相の主な活動時期から考えると永正12年のことではないかと思われます。
また、元相の生年に関しての記述は贈村山家返章だけではなく、安芸高田市歴史民俗博物館様の調査された日高山神社の棟札にも
"大願主国司飛騨守元相乙亥歳"
との一文があり、ここでも元相の生年は壬子ではなく、乙亥であると記載されています。
これ等の事から、今でこそ多くの系図で明応元年(1492年)に生まれたと伝わる国司元相ですが、本来の生年は明応元年ではなく、永正12年(1515年)なのではないでしょうか。
  • 〔1〕『萩藩諸家系譜』マツノ書店
  • 〔2〕『萩藩閥閲録(巻の15 17)』マツノ書店
  • 〔3〕『毛利隆元公山口逗留日記』マツノ書店
  • 〔4〕『高田郡史 上巻』(第二章 高田郡下向の武士たち 第四節 国司氏)
  • 〔5〕『元相譜』山口県立文書館
  • 〔6〕『元相譜』
  •     『萩藩閥閲録(巻の15 18)』(ただし萩藩閥閲録の中では天文年中の出来事となっており、感状にも日付のみで年の記述はない)
  • 〔7〕『毛利元就のすべて』元就年表
  •     『毛利元就卿伝』第三章 卿の大内氏帰属 第一編 毛利氏の勃興
  • 〔8〕『広島県史 巻5』贈村山家返章 47 
  • 〔9〕『渡辺系図』 山口県立文書館