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国司家墓所地図

「国司家墓所 場所」でこのブログに辿り着く方がいらっしゃるようなので、行ったことのある墓所三か所をグーグルマップに纏めました。
細かい場所等違うかもしれませんが参考程度にどうぞ。他の場所はまた立ち寄ったら追加します。

詳しくは続きからどうぞ。
左上のメモの下のアイコンをクリックするとリストが表示されると思います。
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史跡巡り(山口市徳地伊賀地)

元は高田郡国司庄(現在の広島県安芸高田市国司)に領地を持っていた国司氏ですが、毛利氏の関ヶ原による防長移封に伴い、八代元武〔1〕の時に周防国佐波郡徳地邑の枝郷伊賀地(現山口県山口市徳地伊賀地)へ移領することとなりました。
その後、寛永二年の検地(秀元改め)により十代就正の代に長門国厚狭郡万倉村へ替地することになりますが、九代元蔵はこの地で没し、同地にある西方寺に葬られることとなります。
西方寺は明治の頃火災によって焼失し〔2〕、今は同地に墓地だけが残されています。




周りは田圃に囲まれ、非常に静かな土地でした。少し整備され動かされた跡がありますが、「国司元武・元蔵之塔」という分かりやすい看板の後ろに二基のお墓が並んでいます。



上の写真は一枚目の写真左側の墓碑の文字を拡大したものです。右側の墓碑からは何の文字も確認出来ませんでしたが、こちらの中央には「牛庵以吽大居士 神儀」との文字が刻まれており、左側が元蔵のものであることが分かります。
元武・元蔵之塔との看板が立つ事から、もう一つが元武の墓碑だと思われるのですが、江戸時代(18世紀半ば)に成立した防長寺社由来〔3〕の西方寺の項目を確認すると、「境内には五輪塔が二基あり、過去帳によると元蔵とその妻の墓碑」であるとの記載を発見しました。
ただ、それから後の天保12年にまとめられた防長風土注進案〔4〕には「慶長年中の五輪塔が三基。国司隼人佑、同内室、同備後守元武とあり、この場所を領地とした由」であると書かれ、この西方寺跡の五輪塔についての記述だけを並べると、
国司隼人佑元蔵、同内儀(防長寺社由来)→国司隼人佑元蔵、同内室、同備後守元武(防長風土注進案)→国司隼人佑元蔵、同備後守元武(徳地町史、現在の看板)
となり、この五輪塔のが誰のものであるかの記述が変化し、しっかりと戒名が刻まれている元蔵の墓碑以外、同内室のものなのかその父である国司備後守元武のものなのかいまいちはっきりとしないように思いました。

私自身の調査不足で、これ以上は何とも言えませんが、この事についてまた機会があれば色々調べてみたいと感じます。



〔1〕「山口県史史料編 近世1上」
「萩藩閥閲録」などでは元武から元蔵への家督相続を天正十五年と記載しているものもありますが、「毛利三代実録」の慶長八年五月廿一日の項目に『国司備後守元武秩禄ヲ其弟隼人佑元蔵二譲リ、其家ヲ継カシメント請フ』との一文があり、その頃の書状の発給人を見ていると元武から元蔵への相続のタイミングはこの時である可能性が高いのではと思います。(※未考)
〔2〕「国司信濃親相伝(マツノ書店)」
〔3〕「防長寺社由来(山口県立文書館)」
〔4〕「防長風土注進案(山口県立文書館)」

毛利輝元の元武観察日記~元武とお酒~

毛利隆元の傅役を務めたと言われる国司元相の子、国司元武もまた毛利輝元が三歳の頃から傅役を務めました〔1〕。毛利輝元が幼少の頃、その母である尾崎局から旦那である隆元の宛てた手紙〔2〕の中で「すけ六(国司元武)にも幸鶴(毛利輝元)が機嫌を損ねようとも、しっかり意見するように言ってください(意訳)」と書かれているように、あまり厳しい傅役ではなかったようですが、輝元が晩年になっても仲は良かったようで、時折元武の息子の元蔵〔3〕に当てた書状の中で元武の様子をあれこれと報告しています。(以下、どちらも超意訳)

(山口県史史料編近世6 国司家文書35)
「また元武が来たよ。
歳を取ってるけどその年よりは若いよね。健康なことは前と同じです。
お酒を飲むことも変わらないよ。驚くことにお椀でお酒を飲むんだよ。
来た時、主にお酒を飲むんだけど、手を摩ってくれて嬉しかったよ」
(山口県史史料編近世6 国司家文書37)
「元武は寒そうだけどお酒の量は少しも減っていないよ。
最近また何度かやって来ては、さすりましょうかと申して来るんだけど、
まるで年寄りと幼子のようなおかしさだよね」


この他にも元武の病状の事などを元蔵に書き送っていますが、どうやら元武はお酒が好きだったようで、元武とお酒に関して輝元が書いたのが上二つの書状です。『元武譜』〔4〕にも
元武は輝元公の幼年の頃より傅役を務め数十年の親睦があり、元武年老いても度々お屋敷に召し出され、元武常に酒を好むことから、輝元公美酒を貯え置き、元武が出仕するごとに酒を賜る
とあり、この二人はしょっちゅう顔を合わせては、二人でお酒を楽しんでいたようです。
なんだか可愛いですね!輝元さんと元武さん!他にも元武の様子を綴ったものはありますがそれはまたの機会に。


〔1〕『萩藩閥閲録(国司隼人 巻15の1)』
〔2〕『毛利家文書1320』
〔3〕本来は国司元相の息子、元武の次男にあたる元蔵ですが、元武の嫡男が早世し跡継ぎがいないため元武の養子となりました。
〔4〕『元武譜』山口県立文書館

国司元相の生年について

天正19年(1591年)に99歳で亡くなったと伝わる〔1〕国司家七代国司元相ですが、書状にその名前が登場するのは非常に遅く、確認される中で最も古いものは天文7年(1538年)8月7日付けの毛利隆元一字書出〔2〕となります。
一字書出は一般に元服のときに行われるもので、天正19年の時点で99歳という話を信じるのであれば、生年は毛利興元と同じ明応元年(1492年)となり、元相は46歳の時にこの一時書出状を毛利隆元より受け取ったこととなります。
そもそもこの一字書出状が発行された天文7年8月7日には、毛利隆元は山口へ人質として出ており〔3〕、山口へ同行せず、青山土取場の戦いに参加していたとされる元相が一字書出状を受け取っていること自体がおかしく思われるのですが、それを差し置いても、46歳での一時書出状はあまりにも遅いように感じられます。
もしこの時、元相の名前が元相と改められたのであれば、それ以前の名前や活動が記された資料がある筈であると、山口県立文書館にある『元相譜』『国司系図』『香川氏系譜毛利家家臣伝』、国司家の伝記本である『国司信濃親相伝』、『高田郡史』〔4〕『萩藩諸家系譜図』を探ってみましたが、管見の限りでは記述は見つかりませんでした。
また天文7年以前の活動については「天文4年(1535年)正月18日に粟屋右京亮元親と共に元就に従い五龍城」〔5〕「天文3年(1534年)の般若谷の合戦に参加」〔6〕の二つの記述があるのみで、また前者に関しては他の資料では天文4年の出来事ではなく天文3年の出来事となっており〔7〕、少し疑わしい記述だと思われます。
もし元相の生年が今に伝わる天正19年であれば、ここまで記述がないのは何故なのでしょうか。
さて、ここで注目したいのが、『贈村山家返章』〔8〕に収められている下記の文です。
"(前文略)弥御祈念頼申候、歳はきのとの亥、内儀も同年にて候、恐々謹言"
ここで触れられている内儀が最初の妻である渡辺勝女か桂広澄女かは分かりませんが、渡辺勝女は『渡辺系図』〔9〕によると渡辺通の姉として扱われているため、桂広澄女を指している可能性が高いのではと思います。
この書状の中で元相は自らを乙亥生まれであると記述しており、生年として伝わる明応元年は壬子となるため、乙亥には当てはまりません。その前後で乙亥となると、享徳4年(1455年)、永正12年(1515年)、天正3年(1575年)が当はまり、元相の主な活動時期から考えると永正12年のことではないかと思われます。
また、元相の生年に関しての記述は贈村山家返章だけではなく、安芸高田市歴史民俗博物館様の調査された日高山神社の棟札にも
"大願主国司飛騨守元相乙亥歳"
との一文があり、ここでも元相の生年は壬子ではなく、乙亥であると記載されています。
これ等の事から、今でこそ多くの系図で明応元年(1492年)に生まれたと伝わる国司元相ですが、本来の生年は明応元年ではなく、永正12年(1515年)なのではないでしょうか。
  • 〔1〕『萩藩諸家系譜』マツノ書店
  • 〔2〕『萩藩閥閲録(巻の15 17)』マツノ書店
  • 〔3〕『毛利隆元公山口逗留日記』マツノ書店
  • 〔4〕『高田郡史 上巻』(第二章 高田郡下向の武士たち 第四節 国司氏)
  • 〔5〕『元相譜』山口県立文書館
  • 〔6〕『元相譜』
  •     『萩藩閥閲録(巻の15 18)』(ただし萩藩閥閲録の中では天文年中の出来事となっており、感状にも日付のみで年の記述はない)
  • 〔7〕『毛利元就のすべて』元就年表
  •     『毛利元就卿伝』第三章 卿の大内氏帰属 第一編 毛利氏の勃興
  • 〔8〕『広島県史 巻5』贈村山家返章 47 
  • 〔9〕『渡辺系図』 山口県立文書館

史跡巡り(宇部市奥万倉)

新山口駅からJR山陽本線下関行きに乗り厚東駅下車。そこから更に車で30分くらいのところに国司氏の菩提寺である天龍寺があります。



本寺は山口瑠璃光寺、開基は桃岳。
貞和の時代、厚東氏の駿河守武村が一宇を建立し菩提所とし、名を正楽寺と号しました。
しかし厚東氏が滅びると寺名と観音堂のみが残り、明応の頃防臭仁保村瑠璃光寺の桃岳和尚を招請して寺院を再興。寺号を天竜寺と改め山号は蓬莱山を用いたそうです。
元亀の頃、志多野丸(信田丸)の城主杉七郎平重良が防州山口宮野村より定林寺という寺をここへ写し、一宇を新しく建立し杉氏の菩提所としました。この時の開山は無着禅師だそうですが、亡くなった日や墓所などは伝わっていないとのことです。
杉氏断絶後、再び廃寺となりましたが、寛永二年(1625年)に国司就正が万倉領主となり、防州徳地二宮村より若王山宗吽寺という寺を移転し、一宇を建立して前領徳地伊賀地の西法寺より父祖の位牌を移し安置。此処を国司家の菩提所と定めました。
宗吽寺の寺名は就正の父、国司元蔵の法名「牛庵以吽居士」にちなんでいます。



宗吽寺の寺名が天龍寺に改められたのは十五代正久、十六代就直両代の頃のことで、その頃の住職、兀堂によって為されたものです。



天龍寺内にある国司家墓所には、十四基の墓碑があります。
これ等の墓碑は元文四年(1739年)六月二十二日に営まれた七代元相の百五十回忌より遠回忌施行の先例が開かれ、墓碑の建立がはじめられました。
(この際、十五代正久が七代元相の卒年の誤りを指摘しています)
現在天龍寺国司家墓所には八代元武、九代元蔵、十一代就長を除く七代元相から二十二代純行までの墓碑が建立されています。


(天龍寺にあった国司家家紋。ちょっと薄暗くて見辛い写真となりました)

参考:
防長寺社由来
船木郷土史話
国司信濃親相伝
くすのき文化(『国司家墓所及び墓碑』調査について)

        
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